2009年06月14日

サラダ油の原料となる植物

菜種
酸化、熱に強い。キャノーラ油はカナダ原産のキャノーラ種から搾ったもの。
大豆
原材料が安価で最も一般的な原料の一つ。精製しても独特のにおいが残るため、他の油と混合することが多い。
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超能力

トウモロコシ
加熱、酸化に強いので炒め物に適する。独特の香りがある。
ひまわりの種子
淡泊な風味を持ち、ドレッシングに愛用される。
ごま
通常ごま油と呼ばれる食用油はごまを焙煎してから搾油したものである。サラダ油の場合は原材料を焙煎せずに搾油した上で精製しているので、ごま油の香味は無い。精製していない非焙煎の油は「太白油」とも呼ばれる。
サフラワー(紅花)
リノール酸、オレイン酸の含有量が多く、生活習慣病予防に効果があるといわれる。
綿実
サラダ油の王様といわれ、高価。非常にまろやかな味わいがある。
こめ(米糠)
ビタミン類が豊富で優れた抗酸化作用を持つ。サラッとしている。こめ油の項参照。
落花生(ピーナッツ)
香港でよく使われる。日本では何故か不人気である。

用途 [編集]
サラダドレッシング
マヨネーズの原料
マーガリンの原料
揚げ物
炒め物

2009年05月29日

毛利氏の処分

吉川広家や毛利秀元ら毛利一族、福原広俊ら毛利家臣団の反対を押し切り、三成と彼の意を受けた安国寺恵瓊の要請によって、西軍の総大将に就任した毛利輝元であるが、家康の命を受けた福島正則と黒田長政との交渉に応じて、9月24日に大坂城西の丸を退去した。秀元や立花宗茂は大坂城に籠城して徹底抗戦を主張したが、交渉において家康から領地安堵をほのめかされていた輝元はこれに応じず、家康の要請に従い退去した。輝元は吉川広家が東軍に内応し、家康から領地安堵の意向を伝えられていることも知らされており、それを信用しての行動であった。

しかし家康は「本領安堵」の約束を反故にする。家康は輝元の西軍総大将就任は本人の関知していない所であると広家より伝えられていたが、その後輝元が積極的に西軍総大将として活動していたことが判明したためである。具体的には諸大名への西軍参加を呼びかけた書状の発送、伊予において河野通軌ら河野氏遺臣に毛利家臣である村上元吉を付けて、東軍・加藤嘉明の居城である伊予松前城攻撃に従軍させたこと、大友義統を唆し軍勢を付けて豊後を撹乱したことなどが挙げられる[24]。また家康は輝元と義兄弟の契りを1599年(慶長4年)に交わしていたが、それを反故にされた怒りもあった。このため家康は10月2日、黒田長政を通じ広家に対し『毛利氏は改易し、領地は全て没収する』と通告、関ヶ原本戦における南宮山での毛利軍参戦阻止の功を認め広家には周防と長門を加増すると同時に伝えた。
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毛利氏安泰のための内応が水泡に帰した広家は驚愕、家康に対し必死に毛利氏存続を嘆願、自身に加増予定の周防・長門を輝元に与えるよう訴えた。広家の毛利本家への忠節に心を動かされた家康は広家の嘆願を受け入れ、先の毛利氏改易決定を撤回し周防・長門36万石余りへの減封とする決定を10月10日に下した。さらに本拠地を毛利氏が申請した周防山口ではなく、日本海側の寒村であった萩にするよう命じた。本領安堵されると思っていた輝元は失意の余り出家、家督を嫡男である毛利秀就に譲り隠居する。この家康の決定に対し毛利氏は恨みを募らせ、幕末へと続いた。また吉川氏に対し毛利本家は諸侯待遇の推挙を幕府に行わない仕打ちを行った[25]が、広家の功績を知る幕府は吉川氏を諸侯並みの待遇とし、当主は代替わりに将軍への拝謁が許されるという特権を与えて広家の功に報いた。

2009年04月25日

史料豊富な新アッシリア時代

史料豊富な新アッシリア時代ではあるが、この時代の経済に関する情報は王や高級官僚などに関係したものに偏っており、民間経済の実態は不明点が多い。帝国の主な収入源となったのは各州からの税収、属国からの貢納、そして遠征の際の略奪で得た戦利品であった。税は主に農産物と藁が徴収されたほか、一定期間の労役義務(軍務の場合もある)が課せられ、最も基本的な税源となった。都市間の流通に対しては帝国内の各都市で関税をかけたが、その規模はよくわかっていない。戦争による戦利品獲得は、特に奴隷の供給と言う面で重要であり、歴代のアッシリア王が行った大規模建築の数々は奴隷労働力の存在を抜きにしては語り得ないものである。

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相次ぐ強制移住は古代オリエント社会に甚大な影響を及ぼしたが、その例の一つがアラム人に関する影響である。アラム人はシリア地方を中心に幾つかの国家を作っていたが、アッシリアは彼らを征服した後、帝国各地に強制移住させた。自然移動と相まってアラム人はオリエント全域に居住することになり、アラム語が国際商業言語となる下地となった。

アッシリアの拡大と集積する富によって多くの文化が花開いた。新アッシリア時代に特徴的な彫刻として、宮殿などの入り口を守る人頭有翼牡牛像があり、各地で発見されている。また宮殿を飾った浮き彫り彫刻は、主にアッシリア王の狩猟シーンや戦争の場面が描かれており、当時の様子を知ることのできる一級の史料でもある。アッシュールバニパルのライオン狩り彫刻は、その写実性や野生動物の筋肉の表現の秀逸さなどから、アッシリア芸術の最高傑作の一つといわれる。

そして、アッシュールバニパル王が古代メソポタミア各地の文書史料を集めさせて作らせた図書館史料は、古代オリエント史を調べる上であまりにも貴重な史料を現代の学者に提供することになった。この図書館からは当時の学問や行政、更に私生活に関する文書が25000点以上発見されており、アッシリアの知識の集大成とも言うべき存在である。

2009年04月08日

ダンス・ミュージックとの相乗効果

ブリットポップによる音楽界の活発化は、他の音楽ジャンル、とりわけダンス・ミュージックの飛躍発展に少なからず影響を及ぼし、相乗効果の役割も果たしていた。
1994年、プロディジーの2作目『ミュージック・フォー・ジ・ジルテッド・ジェネレーション』が全英1位のミリオン・ヒットを記録。ロックサウンドを大きく導入したこのアルバム以降、ロックのダイナミズムを昇華したダンス・ミュージック作品が次々に登場する。
1996年にはケミカル・ブラザーズがオアシスのノエル・ギャラガーをゲスト・ボーカルに起用した『セッティング・サン』をシングル・チャート1位に叩き込み、同年には映画「トレインスポッティング」に使用されたアンダーワールドの楽曲『ボーン・スリッピー』も世界的評価を獲得。直後のアルバム『弐番目のタフガキ』も大ヒットを記録した。

一方で、ロンドンを中心としたカラフルなブリットポップとは対照的に、イギリス南西部の港町ブリストルではブラックでダウナーなトリップ・ホップムーヴメントが隆盛していた。ダブとヒップ・ホップ、テクノの方法論を積極的に取り入れ1994年のセカンドアルバム『プロテクション』がメジャー・ヒットしブリット・アワードを受賞するなどブレイクしたマッシヴ・アタックを筆頭に、『ダミー』が日本を始めとした世界各国でも爆発的なセールスを記録したポーティスヘッド、名作『マクシンクウェーイ』など2年で3枚ものアルバムをトップ・チャートに放ったトリッキーなどが続いた。非商業的かつ前衛志向の強い孤高のムーヴメントととしての性格を持っていたトリップホップも、音楽性では全く関係のないブリットポップを介して一般層に認知されていく。

1997年?ブームの終息 [編集]
他ジャンルとの相乗効果も生み出し未曾有の盛り上がりをみせたイギリスの音楽シーンであったが、しかしその一方で、メンズウェアを始めとして、ノーザン・アップロアー、ナイロン・ボンバーズ、オクトパスなどブームに便乗したと思しき、明らかに実力不足のバンドも数多くもてはやされるようになり(いわゆるハイプ)、このころになると人々もその狂騒にも飽き始めていた。

ブラーは『ザ・グレート・エスケープ』のそのあまりに保守的な内容に、批評家達から辛口の評価を受けるなどアメリカでのツアーも失敗に終わった。大衆からも厳しい目を向けられる羽目となり、バンドは一時脆弱な状態に陥っていった。そうした中でブラーのデーモン・アルバーンは周囲の批判と中身の無いブームの現状にうっとうしさを感じるようになっていたが、そんな混濁した中でもギターリストのグレアム・コクソンと共に復活への兆しを見つけ、革新的な変化を模索していった。 そんな中ブラーは、1997年1月、セルフタイトルアルバム『ブラー』をリリース。その内容はブリットポップ的なものと相反する、極めてアメリカ志向の強いオルタナティブ・ミュージックに接近を図ったものであり、ブリットポップのバンドとしては逸脱したものであったが評論家から絶賛の賛美を送られブラー最大の成功を収めた。渦中のデーモンが「ブリットポップは死んだ」と発言し、脱ブリットポップを宣言したことで始まったこの1997年は、ブリットポップとイギリスの音楽界にとって大きな転換の年となった。
この年の8月、オアシスが3rdアルバム『ビィ・ヒア・ナウ』をリリース。イギリスで1位、アメリカで2位を獲得したが、その内容には大きな失望の声が上がり、皮肉にもブラーとは正反対に批評家達から辛口の評価を受けるなど前作と比べると大きく売り上げを落とした。このアルバムはそれまでブリットポップの狂騒に明け暮れていたリスナーの熱狂を醒ます結果を生むことになる。

ザ・ヴァーヴの『アーバン・ヒムス』が冷め行くブームを締めくくるかのように大ヒットを記録する一方で、プロディジーの『ザ・ファット・オブ・ザ・ランド』がダンス・ミュージックの枠を遥かに凌駕する成績で全世界のチャートを席巻し、プライマル・スクリームが『バニシング・ポイント』を、スピリチュアライズドは『宇宙遊泳』を発表。それまで「外野」に位置づけられていた諸バンドによるポスト・ブリットポップの風が吹き荒れる中、ブームの主要バンドに括られていたスーパーグラスは『イン・イット・フォー・ザ・マネー』で、スーパー・ファーリー・アニマルズは『ラジエイター』で、シャーラタンズも『テリング・ストーリーズ』で、それぞれでその音楽性を発展的に進歩させる。完全にブリットポップを旧態に追いやる傑作が次々にリリースされる中、レディオヘッドの『OK コンピューター』がもたらしたインパクトは「新たなる潮流」の到来を決定的にした。

97年を境に下り坂となったブリットポップの最後の砦と目されていたパルプの新作『ディス・イズ・ハードコア』が暗い内容で期待したほど売れず、アッシュのセカンド・アルバム『ニュー・クリアー・サウンズ』も苦戦。『アーバン・ヒムス』が世界的ヒットの最中にあってメンバー間の軋轢が直後の解散に発展したザ・ヴァーヴなど、結果これらがブリットポップ・ブームの終焉の象徴となっていった。

その後、多くのブリットポップのバンドが姿を消していくこととなり、ブームも沈静化していく。

その後 [編集]
ブリットポップ終焉後、淘汰されていったバンドの中には自分達よりも人気のあるバンドに引き抜かれメンバーとして活躍するといった幸運な者もいれば、地味にソロ活動を続ける者、若手バンドのマネージャーを務める者、音楽業界から身を引き執筆、福祉関係などの仕事に就く者もいた。
ブリットポップ・バンドを失ったイギリスの音楽業界では、プロディジー以降ブリットポップとも共振したダンス・ミュージックがロック分野にも定着し、ケミカル・ブラザーズやファットボーイ・スリムらを牽引車にビッグ・ビートムーヴメントが開花した。ポップス分野ではロビー・ウィリアムズやS Club 7などのアイドル路線が再びもてはやされるようになった。
一方のロックシーンでは、レディオヘッドやブラー、スーパー・ファーリー・アニマルズ、プライマル・スクリームといったブリットポップを経て前衛的・先鋭的なサウンドを展開し始めていたバンドがそれぞれ独創的な活躍を見せ、オアシス路線のロックから内省的な音楽性へと大きな変貌を遂げたトラヴィスの台頭を機に、ベル・アンド・セバスチャンや後発のコールドプレイなども含め叙情的な音楽性も主役となった。

しかしながら、マニック・ストリート・プリーチャーズ、ステレオフォニックス、フィーダーらウェールズ勢の躍進、プラシーボやアイドルワイルドなどの孤軍奮戦はあるものの、それら以外の正統派ギターロック・バンドは精彩を欠き、途中、ミューズらを除けば目立った有力バンドのデビューもなく、UKロック総体はしばらく低迷を続けることになる。

ロック全体としてはレッド・ホット・チリ・ペッパーズやベックなどのオルタナティヴアーティストが主流として活躍。一方で商業的にはリンキン・パーク、グリーンデイなどといったアメリカ主体のヘヴィ・ロックやポップパンクが市場に溢れた。

ブリットポップの評価と今 [編集]
ブームが終わってからブリットポップは「結局メディアが作り出したでっち上げのブーム」「良質なバンドさえもこのブームの犠牲になった」などと否定的な意見も多い。実際、スウェードやパルプといったブリットポップの代表格だったバンドも、ブームが終わると人気を落とし、活動休止・解散してしまっている。95年から96年のブリットポップ全盛期にデビューし現在に至るまで、本国で当時と同等の人気を持続させているといえるブリットポップのバンドはオアシス、次いでスーパーグラスのみになってしまっている。

加えて、ブーム当時、トニー・ブレア率いる労働党が政権奪取のキーワードとして掲げた『クール・ブリタニア』の象徴としてブリットポップ・バンドを主に人気取りの面で政治利用していた(ブレア新政権は当時、政権交代による変革イメージ、不景気打破、国威発揚の象徴としてブリットポップ・ブームに沸く英国音楽界に着眼し、ブリットポップの到来と新政権誕生の関連性や相互理解といったプレス・パフォーマンスを繰り返していた)こともあり、以前のパンク・ロックムーヴメントなどに比べ反体制的なロック本来の音楽的革新性がなく、また両ブリティッシュ・インヴェイジョンのようなアメリカ市場での大規模な商業的成功もなく、結局は単なる国粋的・祝祭的な「内向き」のムーヴメントとのネガティヴな評価を下されることになる。

以降、UKロック・シーンにとって負の歴史として扱われてきたブリットポップであったが、2000年代に入ってからその風向きに変化が訪れる。

ブーム当時10代前後で、大なり小なりブリットポップを音楽の原体験とするミレニアム世代のデビューである。

2002年、リバティーンズ、ザ・コーラルが登場。当初はアメリカ中心のヒップホップ?R&B全盛の中でのロック復権の機運(すなわちロックンロール・リバイバル)が叫ばれるほどギターバンドの勢力衰退が著しかった時期であり、新人ロックバンドがトップ・チャートにランクインすること自体が久しかったため彼らの登場は大きな起爆剤となった。更にザ・ミュージックの成功もあり一気にインディ・バンドがデビューしていくことになる。2004年から2006年にかけてフランツ・フェルディナンドを筆頭にカイザー・チーフス、カサビアン、ブロック・パーティーなどが次々にデビューし、アメリカを含め、各国でことごとく市場を席巻。

アークティック・モンキーズ辺りのブレイクが決定打となって、2000年代中盤からは、UKロック史上何度か目のギター・バンド黄金期と呼ばれる程の好況を現出させた。その担い手達の中にはブリットポップからの影響をはっきりと公言する者も多く、一時は「第二次ブリットポップ」「ブリットポップの再来」などとも呼ばれる程であった彼らの登場によって、ブリットポップは一定の名誉回復を遂げつつあるといわれる。

他方、現役選手としてアッシュやオーシャン・カラー・シーン、ブルートーンズもブーム終息後から現在まで着実にキャリアを積んでいるほか、ブラーのデーモン・アルバーンはサイド・プロジェクトのゴリラズやザ・グッド、ザ・バッド&ザ・クイーンなどで世界的な評価と成功を獲得し、パルプのジャーヴィス・コッカーも近年ソロアルバムをリリースし好成績を収めた。またスウェードのブレット・アンダーソンはソロとして活動を続け、ギターリストのバーナード・バトラーは関係を修復したブレットと結成したザ・ティアーズの活動を試みたがセールス的には不発に終わり表舞台から姿を消す事となったが、現在は様々なバンドのレコーディングを手掛ける売れっ子プロデューサーとして活躍している。

また2006年以降、クーラ・シェイカーやザ・ヴァーヴ、シェッド・セヴン、ドッジー、マリオン、ノーザン・アップロアーなど多くのブリットポップ・バンドが再結成を果たしている。とりわけザ・ヴァーヴの再始動は大きなリアクションをもって迎えられ、各国のロック・フェスティバルをヘッドライナーとして周る世界規模の再結成ツアーが敢行された。また、西欧・日本で熱烈な歓迎を受けたクーラ・シェイカーの再結成もインディー界隈を賑わしており、シェッド・セヴンも本国での再結成ツアーのチケットがほぼソールドアウト、追加公演が出たり、いくつかのフェス出演を果たすほどの盛況を見せるなど、総じてブリットポップ期の栄華を肯定的に捉えるムードが内外に高まっている。そして遂に、ブラーも2009年にオリジナルメンバー4人で再結成することが発表された。

2004年には、ブリットポップが1994年に誕生したという考えから、ちょうど10年ということで、記録映画「LIVE FOREVER」が公開された。この映画では、デーモン・アルバーンやオアシスのギャラガー兄弟、パルプのジャーヴィス・コッカーといった多くの関係者がブーム当時を振り返っている。

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2009年03月25日

弘南鉄道

弘南鉄道株式会社(こうなんてつどう)は、青森県弘前市を中心として弘南線・大鰐線の2つの鉄道路線を運営する鉄道会社である。本社所在地は青森県平川市本町北柳田23番5号。

かつてはバス事業も行っていたが1941年に分社化し、現在は鉄道事業のみを行っている。大鰐線は弘前電気鉄道として開業した路線で、1970年に譲渡を受けて弘南鉄道の路線となった。また、特定地方交通線に指定された旧国鉄黒石線を1984年に継承したが、1998年に廃止した。
歴史 [編集]
特に標記のない場合は弘南鉄道を指す。

1926年(大正15年)3月27日 - 弘南鉄道を設立。
1927年(昭和2年)9月7日 - 弘前 - 津軽尾上間を開業。
1931年(昭和6年)6月24日 - バス事業に参入。
1941年(昭和16年)4月17日 - バス部門を弘前乗合自動車(弘南バスの前身)に分社。
1948年(昭和23年)7月1日 - 全線電化(直流600ボルト)。
1949年(昭和24年)7月25日 - 弘前電気鉄道設立。
1950年(昭和25年)7月1日 - 津軽尾上 - 弘南黒石(現在の黒石)間が開業し全通。
1954年(昭和29年)4月1日 - 全線750ボルトに昇圧。
1952年(昭和27年)1月26日 - 弘前電気鉄道が大鰐 - 中央弘前間を開業。
1961年(昭和36年)9月1日 - 全線1500ボルトに昇圧。
1970年(昭和45年)10月1日 - 弘前電気鉄道が経営権を弘南鉄道に譲渡。大鰐 - 中央弘前間を大鰐線とする。
1984年(昭和59年)11月1日 - 国鉄黒石線川部 - 黒石間を譲り受け、黒石線として開業。
1998年(平成10年)4月1日 - 黒石線廃止。

路線 [編集]

現有路線 [編集]
弘南線
大鰐線

廃止路線 [編集]
黒石線

現用車両
電車
6000系(大鰐線) - 旧東急6000系
7000系(弘南線・大鰐線) - 旧東急7000系
1521系(弘南線・大鰐線) - 旧南海1521系

電気機関車 [編集]
ED30形(弘南線) - 旧三井三池港務所(大牟田)
ED33形(弘南線) - 武蔵野鉄道(→西武鉄道)デキカ10形
ED22形(大鰐線) - 旧国鉄ED22形→西武鉄道1形→近江鉄道ED22形→一畑電気鉄道ED22形

ラッセル車 [編集]
キ100形(弘南線・大鰐線) - 旧国鉄キ100形

貨車 [編集]
ト1形(弘南線)
トム1500形(大鰐線)
ホキ800形(弘南線・大鰐線) - 旧国鉄ホキ800形

運賃 [編集]
大人普通旅客運賃(小児半額、10円未満は切り上げ)。2008年7月1日改定。

シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

2009年03月09日

死せるイエスを抱きかかえながら

ピエタ
死せるイエスを抱きかかえながら、嘆き悲しむ聖母マリアの像である。これはミケランジェロが自らの署名を書き入れた唯一の作品である。4種類制作し、それぞれ以下のように呼ばれている。なお4作目の「ロンダニーニのピエタ」は、晩年の頃に盲目で手探りの中で制作しようとした未完成品である。
サン・ピエトロのピエタ(バチカン、サン・ピエトロ大聖堂)
フィレンツェのピエタ(フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)
パレストリーナのピエタ(フィレンツェ、アカデミア美術館)
ロンダニーニのピエタ(ミラノ、スフォルツァ城博物館)
ダビデ像
ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

(フィレンツェ、アカデミア美術館、現在ヴェッキオ宮前にあるのはレプリカ)
高さ4.34mの巨大な像である。敵であるゴリアテを見据える激しい表情は「テリビリタ」と呼ばれる。キリスト教の教典である旧約聖書のダビデは割礼を神との契約とするユダヤ人の王であるが、この彫像に割礼の痕はない。このことは、ダビデの父がユダヤ人ではなくパレスチナ人だったと考えているネストリアンやムスリムの歴史認識と一致している。また、瞳の形は丸ではなく、当時割礼に使われた器具と同様のハート型をしている。
モーセ像
(ローマ、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会)
もとはユリウス2世から依頼のあった墓廟の一部とすべく造られたもの。このモーセには2本の角が生えている。これは旧約聖書の出エジプト記のラテン語訳で、「モーセの顔は光を放っていた」と訳すべきところを「角が生えていた」と誤訳されていたためとされている。ただし、現在でも、イスラエルの国が出版しているユダヤ経典のタウラー(モーセ五書)には、「角が生えていた」と、二箇所にわたって記載がある。その角が生えた理由は「主と語ったゆえ」とされており、モーセの時代にこの地域で頭上に角の生えた神はエジプトの女神だったことが有名で、ルネサンスの歴史認識と一致する。                        
建築
サン・ロレンツォ教会図書館
サン・ピエトロ大聖堂(ローマ)
ファルネーゼ宮増築(ローマ)
カンピドーリオ広場(ローマ)
サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会(ローマ)
ポルタ・ピア(ローマ)([])
システィーナ礼拝堂天井画
旧約聖書創世記の9場面、天地創造から大洪水までを描いたフレスコ画で構成されている。
最後の審判
(バチカン、システィーナ礼拝堂、正祭壇背面壁画)
マタイ福音書などに記される「最後の審判」をテーマにした世界的に有名なフレスコ画である。大きく四つの階層に分かれており、上から、天使たちの群像、キリストを中心とした天国、地獄に引きずり落とされる人々、地獄、が描かれている。地獄の描写にはダンテ『神曲』地獄篇のイメージで描かれているという。

その他
同時代の人の数々の証言から、かっとなりやすい性格だったことがうかがえる。その性格のため若い頃はけんかも多く、あるとき顔を殴られて鼻が曲がってしまった。このためもあって容姿に劣等感を持ち、さらに気難しい性格になってしまった。
女性には性的な関心が全然なかったが、既に老年に入った1535年に、ヴィットリア・コロンナ(1492-1547年、ローマ貴族のコロンナ家出身)という未亡人と知り合い、友情を交わすようになる。ヴィットリアに捧げるソネットを数多く作り、「最後の審判」に描かれるマリアはヴィットリアがモデルだといわれる。ヴィットリアが自分より先に亡くなると、ミケランジェロは大いに嘆き悲しんだ。
仕事に取り掛かるのは遅いが、いざ始めると周囲が驚くほどの速度で仕上げたといわれる。
彫刻の題材をどうやって決めるかをたずねられた際、「考えたこともない。素材が命じるままに彫るだけだ」と答えた。
サン・ピエトロのピエタ制作時、当時の枢機卿から「マリアの姿が若過ぎる」と批判を受けたが、それに対し、「罪ある人間は歳をとるが、無原罪の聖母は常人のようには歳をとらないのだ」と答えている。
システィナ礼拝堂の天井画の製作は大変な重労働であった。上を向いて首を曲げた格好で製作を続けたため首の骨が曲がり、滴る絵具が目に落ちて視力を損なってしまったという。
製作初期の段階でユリウス教皇に「完成はいつ頃になるのだ」と聞かれたところ、連日の製作に疲れていたミケランジェロは苛立ち、「私が『出来た』と言った時です」と返答した。これに対し、気の荒いことで知られた教皇は「早く完成させないと足場から突き落とすぞ」と言い返したという。
かつてのイタリア10000リレ紙幣に肖像が描かれていた。

2009年02月20日

第一次ネオ・ジオン抗争

第一次ネオ・ジオン抗争(だいいちじネオ・ジオンこうそう)は、アニメ『機動戦士ガンダムΖΖ』で舞台となったエゥーゴとネオ・ジオンの戦争である。「ハマーン戦争」とも呼ばれる[1]。
バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

戦争としては比較的小規模で、地球圏各地で孤立した部隊同士による戦闘が頻発、その混乱と無秩序は、正規戦争というよりは地域紛争に近いものがあった。

また各陣営の統制が緩く、個人の私的感情による単独行動・脱走・寝返り・反乱が続発。一騎当千の第三世代MSを有する個人が、組織の枠を超えた活動をして戦局をも動かすという、特異な戦争であった。

ティターンズ壊滅
グリプス戦役終盤、コロニーレーザー周辺のエゥーゴ艦隊はティターンズとアクシズの総攻撃を受ける。僚艦ラーディッシュが撃沈される中、アーガマ艦長ブライト・ノアはコロニーレーザーによる敵艦隊の一挙殲滅を画策する。

コロニーレーザーを発射させまいとハマーン、シロッコが自らのMS(キュベレイ、ジ・O)で妨害するものの、カミーユ、シャアらの活躍によりエゥーゴは発射準備が整うまでコロニーレーザーを守り切る。

宇宙世紀0088年2月22日、コロニーレーザーが発射されティターンズ艦隊は壊滅的な打撃を受けたが、アクシズは戦いがまだ続く事を察知し、主要な艦を撤退させていたため被害を最小限に食い止めた。シロッコは戦力の回復を狙って撤退しようとしたが、死者の魂を取り込んだΖガンダムの前に撃破され戦死した。そして、エゥーゴの勝利でこの戦争は終結した。

グリプス戦役、終戦
三つ巴の決戦に勝利したエゥーゴではあったが、最終決戦においてカミーユやクワトロ大尉、エマ・シーン中尉をはじめとする優秀なパイロットを多数喪失する。また、コロニーレーザーも破壊され、戦力の過半数を失うなど損害は大きく、戦後の主導権を確立するには至らなかった。

最終決戦において戦力の大半を温存したアクシズが、まさに漁夫の利を得る形で主導権を握り、戦いは第一次ネオ・ジオン抗争へと移っていくこととなる。

連邦政府及び連邦軍主流派はこの非常事態に日和見を決め込み、各都市・コロニーは孤立。地球圏は戦時統制下の戦争状態というより、さらに悪い秩序が崩壊した無政府状態に陥った。

以後、連邦は二度と威信と統治能力を回復することがなかった。

第一次ネオ・ジオン抗争へ

「ネオ・ジオン」僭称
グリプス戦役終結後、戦力を温存していたアクシズはサイド3(ジオン共和国)などを制圧し、勢力を拡大。アクシズの実権を握る宰相ハマーン・カーンはザビ家再興を図り、ミネバ・ラオ・ザビを掲げ新たなるジオン「ネオ・ジオン」を僭称する。

ネオ・ジオンは各コロニーへ進軍し、まずはコロニー制圧を開始した。なおこのコロニー進軍前後(つまり宣戦布告前後)に地球連邦軍教導隊の一部将校が起こした「ペズンの反乱」[2]において、月のエアーズ市から脱出したニューディサイズを回収、保護した上で廃棄予定だったモビルアーマー、ゾディ・アックを譲渡した上でニューディサイズを追撃してきたα任務部隊の足止めを行っている。

ただしネオ・ジオン側もグリプス戦役最終決戦で百式のメガバズーカランチャーによる攻撃で、先陣を切っていた貴重な熟練将兵を多数喪失していた。そのため、経験不足の若手将校を中心とした急編成部隊を中心に作戦を進めざるを得なくなっていた。

シャングリラへ
宇宙世紀0088年初頭、少年ジュドー・アーシタはサイド1の老朽スペースコロニー「シャングリラ」で暮らしていた。同コロニーの福利厚生政策はお世辞にも充実していたとは言えず、また彼の両親は出稼ぎに出たまま不在の状態だったこともあって、ジュドーは学校にはあまり通わず、生活費の捻出と妹のリィナ・アーシタを「山の手の学校」へと通わせる為、仲間達と共に犯罪すれすれのジャンク屋家業に精を出していた。

そんな折、グリプス戦役で疲弊したエゥーゴの巡洋艦アーガマが修理と補給のため、彼の住むシャングリラへと寄港する。ジュドーと仲間のビーチャ・オーレグらは、アーガマに所属するモビルスーツ(MS)Ζガンダムを盗み出し大儲けしようと画策する。彼らは、シャングリラに流れ着いたティターンズの敗残兵ヤザン・ゲーブルと共にアーガマに侵入するが、ジュドーは成り行きからΖガンダムに乗り込んでしまう。ヤザンのクルーに対する横暴に憤りを覚えたジュドーはΖガンダムで戦いを挑み、彼の乗り込むミドル・モビルスーツを撃退する。

アーガマの艦長ブライト・ノアは、初めてとは思えぬ操縦でΖガンダムを操るジュドーを見て、彼の行動にかつてのガンダムのパイロット達の面影を重ねる。

アーガマ、ネオ・ジオンと交戦
それと前後してシャングリラにもネオ・ジオンのコロニー先遣隊・巡洋艦エンドラが入港。同艦を率いるマシュマー・セロは自ら新型MSガルスJに搭乗し、アーガマを襲撃する。しかし、再びΖガンダムに乗り込んだジュドーがこれを退け、その後ブライトやファ・ユイリィの頼みもあり、ジュドーと仲間達はアーガマの乗員となる。

ΖΖガンダム始動
志願兵ルー・ルカにより、先駆けてコア・ファイターを受け取っていたアーガマは、シャングリラから出航した後ラビアンローズからエゥーゴの最新鋭機ΖΖガンダムを受領。メインパイロットとなったジュドーの活躍もあり、マシュマーとその増援に来たキャラ・スーンを撃退、キャラを捕虜にする活躍を見せ、ネオ・ジオンとのその後の戦いにおいて凄まじい力を見せる。

ムーン・ムーン
アーガマは補給の為、開発時代に作られ既に忘れられたコロニー「ムーン・ムーン」に寄港する。その際既に入港していたエンドラや、外界の技術と人間を忌み嫌うムーン・ムーンの先住民「光族」と交戦状態となるが、アーガマは見事エンドラを撃沈する。

アクシズ潜入
妹リィナを拉致され、救出のためアクシズに潜入したジュドーは、グレミー・トト配下のニュータイプの少女エルピー・プルの駆るキュベレイMk-IIと交戦。アクシズから脱出したアーガマは、月面都市グラナダで補給を受ける。なおグラナダにおいてキャラはアーガマを脱走、ネオ・ジオンに復帰する。

大気圏突入
ネオ・ジオンは、地球連邦本部のあるダカールに工作員を送り込み、事実上地球連邦議会は制圧されている状態だった。各コロニーの制圧をほぼ終えたネオ・ジオンは、ついに地球圏を完全に掌握するため地球への降下を画策する。それに対しエゥーゴはアーガマに追撃命令を下し、アーガマも地球へと向かう事となった。大気圏突入時に再びプルが来襲。ジュドーはZガンダムで迎撃するうちに大気圏に突入してしまい、大気圏突入能力のないプルのキュベレイMk-IIを救助する。そしてプルはアーガマの捕虜、というよりジュドーたちの仲間になってしまう。

ダカールでの地上戦
降下したネオ・ジオンにより地球連邦政府のあるダカールは占拠されてしまうが、グリプス戦役によって戦力が疲弊しきっていたエゥーゴと地球連邦軍はこれを食い止めることが出来ず、ネオ・ジオンは旧ジオン軍やティターンズ残党をも配下に収める勢いを見せる。更には、ミネバを担ぎ上げたパレードやパーティーを行い、力を見せ付けた。

一方、地球に降下したアーガマはネオ・ジオンを叩くためカラバと合流。ダカールを挟撃するため、ガンダム・チームは別行動を取ることとなった。ジュドーたちは迂回中に、砂漠で一年戦争終結よりザビ家復興を待ちつづけていたロンメル隊、アフリカ独立解放戦線、その分派でグレミーが率いることになった「青の部隊」等と交戦を続けることになる。

ガンダム・チームはカラバと協力してダカールを奪回するが、連邦首脳はすでにダブリンに脱出しており、ハマーンもそれを追ってダカールを離脱した。また、ジュドーはリィナと再会するが、ハマーンに撃たれたリィナは戦火の中で生死不明になってしまう(最終回で再会)。

ブライトとジュドー監禁
アーガマは、地球連邦高官たちに会うためダブリンに向かう。ネオ・ジオンにサイド3を与える事で和平交渉を結び、それに伴いアーガマも武装解除させると言う高官にブライトとジュドーは反発するものの、近衛兵に取り押さえられ地下牢に閉じ込められるが、モビルスーツに襲撃され混乱する最中、ファ・ユイリィに助けられる。

ダブリンへコロニー落とし
ネオ・ジオンは、マシュマー・セロ率いる部隊により、アイルランドのダブリンにコロニー落としを決行(この時は落下速度が低かったのか、コロニーが落着後もしばらく原形をとどめたまま直立していた。対岸のイギリス本土でも、ブリティッシュ作戦時のオーストラリアに比べて被害は少なかったようである)。その結果ネオ・ジオンは、地球連邦政府にジオン発祥の地であるサイド3の譲渡を認めさせる。

また、グレミーはこの戦いにプルのクローンプルツーの駆るサイコガンダムMk-IIを投入。両者は相手への「自己嫌悪」から激しい死闘を展開するが、機体の差でプルは破れ、死亡した。

ネェル・アーガマ就航
再び宇宙へ戻ったアーガマクルーたちに、地球に降下したアーガマに代わる新造戦艦ネェル・アーガマが与えられた。しかしエゥーゴの上層部は「子供」という理由のみで、主力パイロットであるジュドーたちの退艦を命令。一方的な命令に不満を抱いたクルーたちは、ジュドーたちの指揮の下ネェル・アーガマを強制出航させ、サイド3を目指す。

ネオ・ジオン内紛
一連の作戦で戦局は大きくネオ・ジオン側に傾いていたが、ネオ・ジオンもサイド3市民の支持を得られず、また内部は磐石ではなく、ハマーンの専横が急進的な親ザビ派による反発を招き、グレミー・トトを中心にした内乱が勃発。

グレミーが自らこそがザビ家の正当な後継者である(真偽は不明)と名乗り、グレミー派を立ち上げ小惑星アクシズを占拠しネオ・ジオンを二分。残ったハマーン派との間で内戦を引き起こす。なお、グレミー派で用いられたモビルスーツには、正規軍との識別を目的として、いくつかの機体でグレーの塗装が施された物が確認されている。

タイガーバウム
サイド3に潜入したネェル・アーガマは、ネオ・ジオンに襲われた難民船を救助する。だが、この船にはダカールでジュドーと出会い、興味を抱いたハマーンが自ら潜入していた。ネェル・アーガマは手近なコロニー「タイガーバウム」に入港するが、そこで好色な市長スタンパ・ハロイに女性メンバーとハマーンを含む女性難民を拉致される。ジュドーたちは、かつてのジュドーたちのような地元の不良少年ルナンたちと協力して彼女達を取り返すが、そこでハマーンと直接対峙、一戦を交える。

キケロ潜入
ジオン発祥の地「コア3(旧ズムシティ)」に接続される予定の鉱山小惑星「キケロ」に潜入したジュドーたちは、過酷な労働を強いられている労働者たちを説得、協力してネオ・ジオンを撤退させる事に成功。「キケロ」は自由な宇宙を目指して飛び去っていった。

ラビアンローズ沈む
キケロの一件で、ハマーンに傀儡というより邪険にされているミネバを見るに見かねたジュドーたちは、彼女を連れ出すべくコア3に潜入するが、ハマーンの「ミネバ様を連れ出すなら、撃ち落す」という脅迫により断念。 その間に、ネェル・アーガマをプルツーが駆るグレミー派の巨大MSクィン・マンサが襲撃。しかしラビアンローズがその盾となり、艦長代理エマリー・オンスともども撃沈。地球連邦艦隊と合流する予定だったネェル・アーガマは予定を変更、まずグレミー派を鎮圧するためアクシズへ向かう。

終戦
混乱極める中、グレミー派の拠点小惑星モウサ(アクシズの居住ブロック)とハマーンの本拠コア3は衝突して共に壊滅。かつてジュドーたちと会したマシュマー・セロ、キャラ・スーン(ネオ・ジオン本隊)、その他ラカン・ダカラン(グレミー派)など主だったパイロットや戦力も相打ちで消滅。またその期に乗じたガンダム・チームがクィン・マンサを倒し、搭乗していたグレミー・トトは戦死する(パイロットのプルツーはネェル・アーガマが保護する)。

ネオ・ジオンの残存兵力は四散し、ただ一人残ったハマーンは、アクシズ発祥の地であり己の故郷でもあるモウサの廃墟で、ジュドーに1対1の最後の決戦を挑み、激戦のうえ敗れる。ジュドーが救いの手を差し伸べるもののそれを拒み(グレミーの反乱の動きを見逃した事で自軍の敗北を悟り、この出撃の時点で既に死を覚悟していたと見られる)、そしてジュドーに未来を託しながら、キュベレイをモウサの壁に激突させ、絶命する。ジュドーは崩壊するモウサに一人取り残されるが、プルツーを通したプルのあの世からの誘導で脱出に成功。だが、プルツーもその代償として絶命した。

その後、主を失った旗艦サダラーンは連邦・エゥーゴ艦隊に投降。その際、ミネバ自身は影武者であることが判明、これらのことからネオ・ジオンの自滅的敗北によるエゥーゴの勝利という形で第一次ネオ・ジオン抗争は終結した。

統率者を失ったネオジオンの残存艦隊は各地に潜伏。あるものは反連邦系セクトらと結託しゲリラ化した。生き残った正規軍のうち最大派閥であるダンジダン・ポジドン少将を中心とする一派は、のちの「シャアの反乱」まで多数の戦力を温存する事となる[3]。一方、地上に残された戦力は宇宙への脱出を試みるべく各個に撤退を開始した。それを阻む連邦軍との激戦が各地で勃発している。

また、これとは別にハマーンの妹セラーナ・カーン外務次官を中心とする穏健派勢力は、連邦政府との和平交渉に臨んだとされている。しかし和平は決裂、セラーナは追撃してきた強硬派との戦闘で行方不明になったという[4]。

エゥーゴのその後
エゥーゴは、戦闘能力を失った地球連邦軍の正規部隊として組み入れられる形で発展的に解散した(主にロンド・ベル隊に配属されたと言われている)。このため、エゥーゴでも有数の艦隊指揮官であったブライト・ノアは連邦軍の指揮官に復帰し、のちの第二次ネオ・ジオン抗争で前線で活躍することとなる。

また、エゥーゴの主力パイロットに成長したジュドー、ルーの両名は、グリプス戦役後中断していた木星エネルギー輸送船団に参加し、ジュピトリスIIで月面フォン・ブラウン市から旅立つ。公式な記録ではないが、彼らと共に戦い抜いたΖΖガンダムも同時にジュピトリスIIに搬入されたという[5]。

劇場版『Ζ』での扱い
2005年に発表された劇場版『Ζガンダム』において、カミーユ・ビダンは精神崩壊せず、アクシズもミネバ・ラオ・ザビを極秘裏に地球へ留学させた後にアステロイドベルトへ撤退したことから、劇場版『Zガンダム』以後の歴史上で本抗争は発生しないことと考えられている(TV版『Zガンダム』から『ガンダムZZ』へ繋がる)。

しかし、アクシズが地球圏で連邦軍に所有されている『逆襲のシャア』との繋がりを考えると、『ガンダムZZ』で語られたものとは違う形での第一次ネオ・ジオン抗争があったと考えることができる。

2009年02月04日

任那(みまな、にんな、369年[要出典] - 562年)

任那(みまな、にんな、369年[要出典] - 562年)は古代に存在した朝鮮半島の南部地域。三韓の中の弁辰、弁韓、および馬韓、慕韓の一部の地に相当する伽耶諸国地域と一部重なり合う。3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目において朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)であると書かれている。日本ではかつては任那をこれらの伽耶諸国全域と現在の全羅南道を含む地域とみなしてきたが、今日では伽耶諸国の中の金官伽耶国(現在の慶尚南道金海市)を指すものとする説もある(「#任那の指す領域」に後述)。しかし、後に示すようにこれには異説がある。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

明治維新の後に唱えられた征韓論や、日韓併合あたっては、古代日本の任那支配が根拠のひとつとなり利用されたこともあるため、これら近代史の出来事を批判する立場の人々は、古代日本の任那支配を認める見解に対しても批判することが多い。このため戦後の概説書や教科書では任那問題を避けることが多くなっていた[1]が、倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている『広開土王碑』の改竄説が否定され、史料価値が明確になったこと[2]、またいくつもの前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による一定の統治機関の存在や、軍事的影響力および経済的利権の存在について認める様々な見解が発表されている。

日本による任那支配は、その実態に関する議論はあるものの、古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項であったが、今日、反日感情や民族主義が根強く「暴力的民族主義が歴史論争を封殺する[3]」、「厳格なジャッジなき学会が歴史を歪曲する[4]」「自尊史観が増殖する[5]」との批判を受ける韓国や、独裁体制の元で言論統制下に置かれている北朝鮮の歴史学界では否定する態度を取っている。

任那の語源については、『三国遺事』所収の『駕洛国記』に見える首露王の王妃がはじめて船で来着した場所である「主浦」村の朝鮮語の訓読み(nim-nae ,??)を転写したものとする鮎貝房之進の説が日本の学界では主流を占める[6]。また日本語呼称の「みまな」は、「nim-na」という語形が、日本語の音節構造に合わせて開音節化(音節末子音に母音が付加されること。この場合はm→ma)した後に、逆行同化(後続音の影響を受けて前部の音が変化すること)によって語頭子音のnがm化した結果成立したものと推定されている。

任那の指す領域
後述の諸史料のうち中国史料・朝鮮史料の解釈から、任那とは加羅(広義には伽耶諸国全域の総称、狭義には大加羅(=大伽耶、現代の慶尚北道高霊郡))とは別の実体を表すものであり、結論的には伽耶諸国の中の一国である金官伽耶国(現代の慶尚南道金海市)を指すものとする説がある。しかし、これには異説もある.

朝鮮史学者の田中俊明は、朝鮮・中国の史料では任那を伽耶諸国の汎称として用いることはなく金官伽耶を指すものと結論し、『日本書紀』においても特定国を指す用法があるとともに、総称としての用法が認められるがそれは『日本書紀』に独自の特殊な用法とする[7]。日本史学者の吉田孝は、『日本書紀』が伽耶諸国を総称して任那と呼んだとする説が一般化していることを批判し、中国・朝鮮の史料では任那は金官伽耶単体を指すものであり、『日本書紀』の任那の用法は任那加羅(金官伽耶)を指すと同時に任那加羅を中心とする政治的領域の全体を指す特異なものであるとしている[8]。 朝鮮史学者の権珠賢は日本、朝鮮、中国の金石文を含む23種類の史料における任那と加耶の全用例を精査し、任那は特定の小国の呼称ではなく、百済にも新羅にも属さなかった諸小国の呼称であること、任那の範囲と加耶の範囲は一致しないこと、任那という呼称は倭国と高句麗による他称であること、このような説を提示している。

任那日本府
現在、記紀の記述や考古学的成果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたと考えられている[10]。

一方、1960年代頃から朝鮮半島では民族主義が広がり、記紀に記されているヤマト朝廷の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた[11]。また日本でも1970年代に入り、それらに同調する主張がなされた[12]。

しかしながら、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いでおり(その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになった[13])、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている[14]。また朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であったとする説[8]がある地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている[14]。そのため、ヤマト朝廷と深い関連を持つ集団(ヤマト朝廷から派遣された官吏や軍人、ヤマト朝廷に臣従した在地豪族)が伽耶地域とその西隣の地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことについてはほぼ確実視されるようになった[15]。

ヤマト朝廷の勢力を示す他の傍証としては、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉などがある。戦前の日本の考古学者は、これをヤマト朝廷の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後、朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたことがあった。しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないこと[16]に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明し、朝鮮半島由来説は否定された[17]。

各種史料
中国史料における任那
『日本書紀』(720年成立)よりも古い記述を含み、信頼性が高いとされる。

『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700?800里の地点に並在している。」と記されている。類書の『通典』(801年成立)、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。

朝鮮半島史料における任那
朝鮮半島史料では任那は次の2つの記載しかない。

『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立) : 大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としており、ここでの任那は金官伽耶を指すとされている。
『三国史記』(1145年成立) : 本紀には現われず列伝に1例が認められるのみである(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。

日本史料における任那
『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那」が見え、
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場し、
『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」、「弥麻那」、「三間名」と見えている。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を繰り返し求めており、従来日本(倭)に対し朝貢していたように書かれている。なお、646年(大化2年)、高向玄理が新羅へ派遣され、質(人質の意だが実質的には外交官と推察されている)を送ることと引き替えに、これまで「任那の調」の代行納入を新羅に求めることは廃止され、質として金春秋(後の武烈王)が来日している[18]。

魏に続く晋代になり、290年頃に八王の乱が起きて中原が乱れると、鮮卑の慕容氏が強勢になって遼東と遼西に進出し、楽浪・帯方両郡は中原との陸路の連絡を絶たれ弱体化した。そして高句麗の攻撃を受けて、313年には楽浪郡が、翌314年には帯方郡が滅亡した。346年には前燕(慕容氏)による高句麗の一時的壊滅と、さらに357年の前燕の中原進出に伴う高句麗の再起と、朝鮮半島南部への政治的圧力関係は、めまぐるしく情勢が変化した。この間に朝鮮半島南部の政治状況は一気に流動化したと考えられ、魏代の弁辰(弁韓)諸国は任那に再編成されたと推測される。一つの仮説ではあるが、その時期は320年から350年代、しぼってみると345年から355年頃ではないかと考えられる。

2009年01月21日

ラケットを使って打ち合い、得点を競うスポーツである

バドミントン (badminton) はネットで二つに分けられたコートの両側にプレーヤーが位置し、シャトルコック(通称シャトル)をラケットを使って打ち合い、得点を競うスポーツである。名称がバトミントンと間違われることが多いが、正しくはバドミントン(badminton)である。インドネシアやマレーシアの国技となっている。

シャトルコックという、半球状のコルクに水鳥等の羽を接着剤などで固定した物を打ち合うのが最大の特徴。
全ての球技の中で打球の初速が最も速いことで、ギネスブックに認定されている。スマッシュの初速は、最速で時速350km以上に達する。また打球が相手コートに届くまでに空気抵抗を受けて急激に速度が低下するため、初速と終速の差が著しいのも他の球技には無い特徴と言える。
競技としてのバドミントンは、緩急を使い分ける様々なショットやフットワーク、対戦相手との駆け引き、ダブルスの場合、ペアとのコンビネーションなど多岐にわたる技術を必要とし、パワーや瞬発力とともに持久力の優劣も勝負を左右する、複雑で非常に激しいものである。
一方、屋内外で行われるレクリエーションとして、年齢や性別を問わず広く一般に楽しまれている。競技としての奥深さと、簡単にできるスポーツとしての楽しさの、二面性を兼ね備えている。
日本での競技人口は、年々増加傾向にあり、小学生から生涯スポーツとして楽しむシニアまで多くのプレーヤーが存在する。また、個性豊かなクラブチームが全国各地で活動している。

プレーが始まる前に『サービスをするかレシーブをするか』または『コートのどちらのエンドを選ぶか』の選択権をトスによって決める。トスに勝ったサイドが先にどちらかを選び、負けたサイドは、残りから選択する。国際大会ではコイントスを行うが、日本では、一般にじゃんけんで決める。
すべてのラリーはサービスから始める。サービスは、トスの直後を除いて1つ前のラリーに勝ったサイドが行う。よって、第2ゲームと第3ゲームの初めは、直前のゲームの勝者サイドが行う。
決められた相手コート内にシャトルを落とすか、相手がフォルト(反則)を取られた場合、1点を得る。
試合は、シングルス、ダブルスともに、2ゲーム先取の3ゲームマッチ。それぞれラリーポイントの21点ゲーム、ただし20対20になった場合延長戦となり、以降どちらかが2点差をつけるか、30点に達するまで行われる。
主審の判定は、最終的なもので、質問は許されても抗議は認められない。

サービス
サービスでは、シャトルの台(コルク)を打たなければならない。
サーバーがシャトルを打つ瞬間、ラケットのシャフトが下向きでなければならない。
ラケットで打たれる瞬間、シャトル全体がサーバーのウエスト(肋骨の一番下の高さ)より下でなければならない。
サービスを行うときに足を地面から離してはならない。

コート
シングルスでは内側のサイドラインを使用し、ダブルスでは外側のサイドラインを使用する。
サービスは、サーバーから見て対角線側のコートに打つ。このとき、シングルスではショートサービスラインからバックバウンダリーライン、ダブルスではショートサービスラインからダブルス用のロングサービスラインの間にシャトルが落下するよう、それぞれ打たなければならない。

インターバル
各ゲームどちらかの点数が11点に達した時は60秒以内、ゲームとゲームの間には120秒以内のインターバルをとることができる。
各インターバル以外でコート外に出ることは、故障等の止むを得ない場合を除き、基本的に認められない。ただし手の汗を拭いたり、破損したラケットを交換することは認められる。

参考になるサイト
日本ユニシス実業団バドミントン部「詳しいバドミントン新ルール解説」

日本バドミントン協会「バドミントン競技規則 2006-2007」

用具
バドミントンで使用される用具は以下の通りである。特に断りがない限り、競技用のものについて述べる。

シャトルコック
「羽(羽根)」または「シャトル」と呼ばれることが多い。シャトルコックという名前は以前鶏(コック)の羽で作られていたころの名残である。現在は試合球、練習球においても鶏の羽根のシャトルはほとんど使われていない。今日では以下のようになっている。

競技用に主として使用されている物は、ガチョウの羽(羽軸が強く、丈夫である)とコルクから作られていて、各羽は樹脂で固められている。安価なシャトルはアヒルの羽によって作られている物もある。動体視力を鍛える練習球として、黒ガチョウの羽根を使用したシャトルも一部メーカーが販売している。
重量約5g、長さ約7cm。羽根の枚数は16枚。羽根の先端(コルクとは逆側)は58mmから68mmで、円形でなければならない。コルクの直径は25mmから28mmで、先は丸くする、と規定されている。
コルク部分に羽根を埋め込み、軸を糸で留めた後、接着剤で固定する。
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

壊れやすく、1本でも羽が折れれば正しい軌道で飛ばなくなるため、消費が激しい。(一試合で2?3個)一般に壊れたシャトルは、ノック練習等でボロボロになるまで再利用され、廃棄される。
気温や湿度の変化による空気抵抗の差により、飛距離が変化しやすい。具体的には、気温が高く湿度が低いときはよく飛び、逆に気温が低く湿度が高いときは飛ばなくなる。バドミントンの試合前に温度などを測り、常に同じ飛びのシャトルでプレーできるように、同じ銘柄のシャトルでも飛距離の違うものが数種類ずつ製造されている。
日本バドミントン協会では、「第一種検定合格球」「第二種検定合格球」という等級を定めている。「第一種検定合格球」とは、日本バドミントン協会が主催する大会およびその予選で使用できるシャトルコックであり、 「第二種検定合格球」とは、日本バドミントン協会の加盟団体が単独で開催する競技大会で使用を認められているシャトルコックである。
「第一種検定合格球」を更に厳密に分けると、全国大会、国体競技で使用できる「第一種合格水鳥シャトル」と、開催地都道府県協会が使用できる「第一種合格水鳥シャトル開催地選択品」がある。2006年度、「第一種合格水鳥シャトル」には6メーカー6銘柄、「第一種合格水鳥シャトル開催地選択品」には17メーカー22銘柄が認定された。
価格は、安価なもので1球数十円ほど、最高級品では1球400円近い物もある。1ダース単位で筒状のケースに入った状態で売られている。多くのメーカーでは、使用する羽の種類や、質などにより、かなり細かくシャトルコックの等級を定め、大きな価格差をつけて販売している。例を挙げると、ヨネックスの製造している銘柄の場合、希望小売価格が存在する最も安価な銘柄であるF-20コートプレー(中国製)は1ダース2,415円であるのに対し、最高級の銘柄であるF-90トーナメント(日本製・第一種検定合格球)は1ダース4,620円と、倍近い価格差がある。
世界のシャトルの9割以上は中国で生産されている。
シャトルコックに使用される羽根は、主に食用のガチョウから得られる。中でも、次列風切という部位がシャトルコックに最適である。
材料(ガチョウ、アヒルの羽)と生産地(中国)の関係で、2005年から2006年に鳥インフルエンザが流行した際には、現地で食用ガチョウが大量に処分された。その影響で各メーカーが販売価格を値上げした。
ごく一部の高級なシャトルコックは日本国内で生産されることもある。高品質のシャトルコックとそうでないものとでは、飛行精度や強度が大きく異なる。
安価で耐久性の高いナイロン製のシャトルもある。以前は中学生の大会等でナイロンシャトルを使うことが規定されていたが、打球感などが羽毛球と異なり軽いため、最近では安価の羽毛球も多く販売されているため、現在は試合でも練習でもほとんど使われていない。しかし、寒冷地などでは検定より温度が下がるため使用されている。ただし、前述の鳥インフルエンザ等の影響から、数十年後には水鳥の羽根の安定した供給が望めなくなることが示唆されており、また高価なシャトルの使用が新規プレイヤー獲得の妨げとなっているという意見もあることから、将来的にナイロンなどの安価で耐久性の高いシャトルを公式球として使用することになる可能性がある。

2009年01月14日

帆良学園都市全体で学園祭の時期

学園祭(9巻 - 17巻)
麻帆良学園都市全体で学園祭の時期となった。三日の間、3-Aの生徒もクラスや部活動などで様々な活動を行うため、担任のネギはスケジュールがたいへんな状態となったが、生徒の一人で、自らを火星人と名乗る超鈴音からもらったタイムマシン「カシオペア」により、順にこなしていくことができた。
学園祭二日目にネギは父、ナギの幻影と出会う。父を目標とするネギに対してナギはそれを否定するような言葉を投げかける。落ち込んだネギは、全てを吹っ切って前に進もうとするが、生徒の一人から吹っ切れたと思うのは勘違いだ、大きな悩みは抱えたまま前に進めと助言される。
一方、ネギらが学園祭を楽しんでいる間に超鈴音は魔法の秘密を全世界に公知すべく活動していた。超鈴音は実は未来人であり、歴史を変えるためにこの時代に来たのであった。魔法使いたちは超鈴音を止めようとするが戦いに敗れ、ネギと仲間(ネギ・パーティー)も罠にかかり未来に飛ばされる。ネギらはかろうじて過去(学園祭三日目)に戻ることができ、超鈴音の野望を止めるべく行動に移った。しかし、ネギは迷う。超鈴音の行いは自身のエゴのために世界を変えるがゆえに悪であったが、それによって助かる者もいるはずである。そして、超鈴音を止めることはネギ自分のために未来を変えることでもあった。自分が正しいと思うだけでは進めなくなったネギは、ある結論を出し超鈴音との決戦に挑む。
その後(18巻)
ネギは父の友人より、魔法世界に父の手がかりがあることを聞かされ、旅立ちの決意をする。だが、父しか見えていないその姿を明日菜に危惧され思い悩むことになる。結局は、父は自分の全てだ、止まることはできないと再確認したネギは明日菜に同行を求める。仲間とともにネギを守ることを決めていた明日菜は、もう止めることをしなかった。そして、旅立ちの前にネギに一緒に遊ぶことを約束させるのであった。ここで第一部完となる。

第二部
ネギま部創立(19巻)
魔法世界への旅立ちのため、明日菜は「ネギのお父さんの大魔法使いナギさんを探すためのクラブ」、略してネギま部を結成した。明日菜の過去を知ったエヴァンジェリンは、明日菜に危険なテストを与えることで魔法世界への関わりをやめさせようとするが、明日菜は見事に耐え抜き改めてネギを守る決意を示した。明日菜はエヴァンジェリンの2人目の弟子となった。
明日菜の親友のあやかをはじめとする、魔法を知らない生徒たちは、ネギま部の英国行に同行しようとする。エヴァンジェリンの画策により、夏祭りで部員の証であるバッチを狙うが、数々の修羅場を潜り抜けた面々の敵ではなく、自分たちがやろうとしているのはとても危険なことだと明日菜から身をもって知らされることとなった。
なお、ネギま部はエヴァンジェリンにより白き翼(羅:ALA ALBA)の名が付けられた。これは、ネギの父、ナギのパーティー名「紅き翼」にならってのこと。
アーニャ来日(20巻)
明日菜と一息ついていたネギの前に突然幼馴染のアーニャが登場した。帰ると手紙をよこしたのになかなか帰ってこなかったネギに業を煮やして、自分から連れ帰りに来たのだ。突如の幼馴染の登場に揺れる生徒たち、一方のアーニャは自分よりスタイルのいい生徒面々を見て、ネギの環境に良くないと判断し、帰国を強要する。だが、ネギま部の一同がネギの父親捜しのために協力していることを知り、仲間となる。
魔法世界へ(20巻 - 21巻)
魔法世界へ行く準備も整い、故郷のウェールズにきたネギま部。かつての惨状の傷跡である石化した村人を見て、ネギはあらためて自身の決意を確めた。そして、魔法世界に着いたネギま部だが、5人の魔法を知らない生徒がついてきていたことが発覚する。そこに、フェイトの襲撃を受ける。重症を負うも明日菜の機転で一命を取り留めたネギだが、敵の魔法で魔法世界の方々へ散り散りにされてしまう。

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